「なんで自分だけ、こんな目に・・・ってよく言うけど、本当に自分だけ?」

例えば、今書いた、「適当に使う」って言葉でも、文字の通りで考えれば、「当(まと)に適(かなった)使い方をする」ということで、「きちんと使う、適切に使う」という意味のはずなのに、「少しいい加減に使う」ぐらいの感覚で、「でたらめに」、とか、「だいたいで」ぐらいの意味に使っていました。
この、「自分だけこんな目に・・・」もどうなのでしょうか。「世の中にはもっと不幸な人もいる」なんて言う気はありません。それは比較の世界です。そうでなくて、同じような境遇の方は、結構おられますよ。じっくり見ようとしてください。自分がその境遇になるまで、その立場におかれるまで、全く自分が見ようとすらしてこなかった方々がたくさんおられます。自分の世界の外に見ていた関係ない存在だったのでしょう。初めて、他人の御苦労に気づき出会える,素晴らしい機会なのかも知れません。
私は、だいたい、会話の中で気をつけている言葉があります。「みんなが、」「むかしから、」「絶対に、」などです。
「本当にみんななのか」、「どれくらいのむかしからなのか」、「絶対なんてことがあるのか」などと尋ねたくなってしまいます。
あげ足取りのように思う方もおられると思いますが、そうではないのだろうと思います。
たとえば、「みんなが」という言葉ですが、子どものころには、「みんな持っているから、私にも買って」、と親にせがんだりしましたが、親は見透かして「みんなって、何人や」と意地の悪い質問をしてきます。ほんの自分のまわりにいる2、3人なんですよね、実際は。しかし、買って欲しいから、その2、3人が本当に、みんなに見えてしまうのです。こうやって、人が人と話すときに、言葉のニュアンスが少しずつずれていて、なんだか話がかみあわないことがあります。
「蚕繭自縛」(さんけんじばく)っていう言葉がお経に出てきますが、かいこが、自分でまゆを出して、自分をからに閉じ込めてしまうことを言うのだそうです。
自分で作った言葉(自分の思い)の迷路に自分がはまりこんで、抜け出せなくなってしまいます。
抜け出す方法は、自分をあてにするのでなくて、思い切って、人の話を聞いて見ることです。人の中にでて人の声を聞いてみる。自分の姿は自分でみえませんので、人に教えていただくしかないのでしょう。
そういったことを昔の人は「雨の音と仏法は茅(かや)のそとで聞け」といったのだろうと思います。
めんどくさいけど、複数の人の中に出てきて、我が身を習うこと、大切です。自宅でテレビのリモコンや、ネットばかりの生活じゃ、自分に出会えませんよ。同様に、家族同士だったり、親類同士も同様ですよ、閉じていますよ。
ちなみに、蚕は、自分の繭から抜け出すときに、コクナーゼという弱アルカリ性の液体酵素を自ら出すのだそうです。
それは、私たちにとっては、聴聞に出かけること。一歩前に、自分探しの旅にでかけてみましょう。 合掌

 

 

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