東派旧播磨三道場の一つ 砥堀道場

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■■■09 法宝物、記録等

「法宝物」(ほうほうもつ)といって、お寺に伝わっているもので、歴史を表すもの及び、他所に残された当寺に関する歴史的な記録を集めてみました。

【1】1442年開基説『神東神西郡沿革考』


【2】1500年代 実如上人筆「数の名号」と伝蓮如筆「六字名号」


【3】1500年代 開基仏 「方便法身尊形」(実如裏書有)


【4】1600年末 「覚如上人御影像」(一如上人発行)


【5】1721年 「阿弥陀如来木像の台座」 旧本堂建築時期か


【6】1743年5月28日 「播州船場本徳寺縁起」


【7】1745年 「覚え書き」宗祖真筆名号購入記録


【8】1747年 「七高僧御影像」(従如上人発行)


【9】1747年 「聖徳太子御真影」 (従如上人発行)


【10】1782年「御立組寺社明細帳」(『岡田家文書』)


【11】1787年、経鐘寄贈


【12】1802年 釋正順の名を記した木箱


【13】1823(文政6)年 手洗い石寄贈


【14】1844(天保15)年 打敷寄贈 嫁入記念として


【15】1844(天保15)年 池坊 許可状


【16】1845(弘化2)年 許可状 正楽寺得雄


【17】1846年 真行寺第十世 釋明照 を記した板


【18】1848年(嘉永元年)平馨寄贈 


【19】1853(嘉永6)年 文書 未読


【20】1875年 齊明寺廓然 住職 名を記した木片


【21】1925年 住職 武田龍弥 旧本堂増築、改築を記した板4枚

 

【1】1442年開基説『神東神西郡沿革考』
当院は、1442年開基と伝えられています。
その根拠となるのは、今から100年ほど前の明治29年10月に神崎郡より出版されている、『神東神西郡沿革考』(大杉兵太郎著)という資料に「嘉吉2年6月」とあるところによります。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765760/12?viewMode=(『神東神西郡沿革考』(国立国会図書館蔵)119頁の右側)
嘉吉2年というと、その前の年、嘉吉元年に、姫路では、嘉吉の乱が発生します。
嘉吉の乱とは、1441年に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府六代将軍足利義教を暗殺し、播磨で幕府方討伐軍の細川氏、山名氏、武田氏が攻め滅ぼしてしまうという事件です。 shinshu-neyphyo2000(6頁の1441年の項目)
姫路におけるその動乱の翌年に、念仏の教えが庶民の間に広まり始めたという可能性は、十分ありそうに思えます。
当院の山号は、「有明山」であり、これは、いつから名のっているのかは不明ですが、隣村にある有明山の山上には、天台宗と思われる寺院の後があるのだそうです。
真偽はわかりませんが、もしかしたら動乱のおり、転派などがおき、ふもとにおりてきたのが始まりなのではないかと話して下さったかたもおられました。
今となっては、その年代の元になった資料は確認できません。人によっては、「でたらめに先祖が届けたのでないか」とおっしゃられる方もいます。
ただ、2015年に同朋大学の先生方、兵庫県立歴史博物館の先生方の鑑定によって、実如上人の裏書きに「陰山」であろうと思われる室町時代の当地の地名が記されているということから、当地域が九条家の荘園にあたる地域にあること、また、少なくとも1400年代の後半までには、何らかの形でお寺が存在したことは間違いないことだろうと思われます。
これは、また、違う話かも知れませんが、近隣に須加院という村がありまして、そこに、極楽寺の跡があります。極楽寺瓦経として、東京の国立博物館に保管されている瓦を作ったお寺です。「極楽寺」という名前から想像するに、この周辺地域も、かなり古くから浄土教との関わりがあったのではないかとも思われます。

【2】1500年代 実如上人筆「数の名号」と伝蓮如筆「六字名号」

他の「伝蓮如上人筆六字名号」と「阿弥陀如来御絵像」と3点セットで、譲り受けました。
元々は、古二階町にあった松久家に伝わるご本尊でしたが、姫路大空襲で姫路の町中が焼けてしまい、その時は、大切なものを地面に埋めて難を逃れたのだそうです。このたび、お母様が亡くなられ、仏壇を新調されるに際して、ご本尊のサイズが合わなくなってきたため、御返納いただきました。後日同朋大学の青木馨先生に見ていただいた結果、一枚は、実如上人が毎朝お勤めの後一枚ずつ書かれたものが、後に募財の為に売りに出された「数の名号」の真筆であることと、もう一枚は,実如上人の父、蓮如上人が書かれたのでないかと伝えられる六字名号であると教えていただきました。もう一枚の御本尊は、手直しをしてあるが、桃山時代頃のものではないかと教えて下さいました。

【3】1500年代 開基仏 「方便法身尊形」(実如裏書有)

掲載した写真は、方便法身尊形で、おそらく開基仏ではないかとされるものです。
裏書きはとても読みにくく、過去にも何度も「播磨の三道場のひとつ」ということで、調査に来られましたが、文字が読めずに鑑定を断念されていました。
しかし、このたび、山陽教区における「宗祖親鸞聖人七百五十回忌」の記念事業の一つとして、「播磨と本願寺展」を兵庫県立歴史博物館(姫路)で企画して下さり、歴博の職員の方や、同朋大学の安藤弥先生、青木馨先生等々により、①英賀本徳寺の門徒として道場もしくは寺院用の御絵像をお受けしたこと、②裏書きが実如上人(蓮如上人の息子)のものであること、③当地

が「陰山の庄」と呼ばれた室町時代に作られたものであるということが判明しました。
つきましては、「播磨と本願寺展」で、歴史博物館にも展示していただき、また、記念冊子にも掲載していただき、門徒一同喜んで、バスを出して、みなで拝観に寄せていただいた次第です。
<上記写真は、「播磨と本願寺展」より


2013年7月31日の調査時の様子です。

【4】1600年末 「覚如上人御影像」(一如上人発行)


当院では、御代前(一般的には蓮如上人がかけられている)は、なぜか、覚如上人の絵像がかけられています。
このお軸は、一如上人の時代に、許可されて下付されています。
当地方においては、普通は蓮如上人のお軸なのですが、その背景を考えてみると、1442年開基説に由来するのではなかろうかと考えています。1442年開基なら、蓮如上人はまだ本願寺の門主になっておられず、それ以前の覚如上人の御絵像が許可されたのではなかろうかと考えております。

「一如 押印
播州 砥堀  道場
真行寺 ?     」
と記してあります。

ここで、「砥堀道場」という言葉と「真行寺」が併記されています。
一如上人は、本願寺の第十六代の門主で1679年に就任され、1700年に示寂。
ということは、このお軸は、1600年代の末に発行されたということでしょう。

【5】1721年 「阿弥陀如来木像の台座」 旧本堂建築時期か

「釋妙可信女
為佛恩報謝  寄進 當村
庄右衛門

享保六辛丑年
正月廿七日往生也   」

釋妙可という女性の方が、享保6年(1721年)の1月27日に往生された(お浄土に帰られた)ことに対して、仏さまにお礼の意味で、この村の庄右衛門という方がこの台を寄進をして下さったということが記してあります。

注意すべきことは2つ。
一つは、「往生されたお礼」ということが寄進者においてハッキリしているということ。
もう一つは、これは、本堂のご本尊の阿弥陀如来の台座であるために、釋妙可信女さんが亡くなられた1721年より後に、旧本堂が建てられた際に、これを寄進して下さったということなのでしょう。
おそらく、真行寺の旧本堂は、1721年頃に建てられたと考えることができます。

 

 

【6】1743年5月28日 「播州船場本徳寺縁起」

【7】1745年 「覚え書き」宗祖真筆名号購入記録

    覚
一   祖師聖人御真筆    (祖師聖人「親鸞」御真筆)
六字御名号一行              (六時御名号「南無阿弥陀仏」一行
※「一幅ではなくて、文書中の一行」)
什物之内依願        (什物の内、願いに依りて)
譲之候処実正也                (譲るの候、実正のところ也)
為御禮金子五枚                (御礼金、金子五枚の為に)
(渡)被差上受納              (渡す)差し上げ、受納を被る)
候前後出入無之                (候前後出入りこれなし)
相済申候                      (あい済ませ申し候)
以上      (以上です)
延享二年                      (延享2年7月28日)
七月廿八日                                本福寺 の 円静院
本福寺
圓静院
光源寺                        (光源寺)
意門御房御取次             (意門御房御取次)
願主                     (願主 利口恵 殿)
利□恵殿

【8】1747年 「七高僧御影像」(従如上人発行)

七高僧御影
裏書きには、

大谷本願寺従如 印
聖徳太子真影 延享四丁卯歳二月三日
正覚寺下 播州神東郡砥堀村 真行寺 什物

としるされています。
当時、船場本徳寺の主要寺院である正覚寺の下寺として位置づけられていたようです。

【9】1747年 「聖徳太子御真影」 (従如上人発行)

聖徳太子御真影
裏書きには、

大谷本願寺従如 印
聖徳太子真影 延享四丁卯歳二月三日
正覚寺下 播州神東郡砥堀村 真行寺 什物

と記されています。
当時、船場本徳寺で活躍していた正覚寺の下寺としてあったようです。

 

 

【10】1782年「御立組寺社明細帳」(『岡田家文書』)

1782(天明2)年「御立組寺社明細帳」(『岡田家文書』)
によると、

本堂 東西四間半、南北四間、南向瓦葺
廊下 東西一件半、南北二間、瓦葺
庫裏 東西五間、 南北三間、藁葺
表門 高サ七尺、 横六尺、 瓦葺
境内 東西四十間、南北三十一間半
祀堂畑 一畝余

と記されている。
古写真を参考にすると、昭和の終わりに建て変える前の建物と一致するのではないかと思われる。

【11】1787年、経鐘寄贈

当院の什物として、古い経鐘があります。
以下の文言が刻まれています。

播州神東郡上砥堀邑真行寺常什物
于時天明七丁未十月中旬
前住釋正林現住慧正釋尼妙空
京岩上森嶋播磨大掾義只作

上の写真は、鉛筆で文字を浮かび上がらせたものです。

この記録によると、この鐘は、播州神東郡上砥堀村の真行寺什物である。
1787年10月中頃、前住職の釋正林と現住職の釋慧正と(坊守)釋尼妙空が寄進した。
制作者は、京都の岩上町にいる、播磨大掾をしている森嶋義只が制作した。

ということになります。

ところが、この「京岩上森嶋播磨大掾義只作」という名前をネット検索した結果、神戸大学の図書館にある記録にたどりつきました。神戸の曹洞宗の寺院に、同じ名前の方が作られた、銅鉢があるのだとか。
しかもそこには、北条時頼の命で作られたと彫ってあるのだそうです。

詳しくはわかりませんんが、もしかしたら、その時代に作られた鐘を、1787年に当院住職達が中古で購入した可能性もあるのではないかと妄想は膨らみます。現在の所、真偽は未決です。
※ 以下は、その記事のリンクです。
京岩上住播磨大掾義只昨
以下、記事抜粋

祥福時
山号は天門山妙心寺末本尊は釈迦如来にまします、貞享二年播磨網干町竜門寺の開基で「不生禅」を説いた名僧盤珪国師を請迎して開基となした草庵であった、天保二年九月伊予宇和島の伊達侯の菩提所となり面目を一新し明治三年に至って現在の地に伽監を建て益々繁昌し代々名僧多く妙心寺派の専門道場として名あり特に本寺は地勢よくうしろの緑樹の間に宝塔陰見して眺望絶佳神戸市内に比類なき勝景である
宝塔は光村氏より明治二十一年一切経を寄進しこれを納めるために建立されたものであって、平野の風景に大きい雅趣を添え祥福の寺塔として知られている、なお同寺には明治三十八年兵庫の杉本氏が古物商の店頭で入手された銅鉢を寄進されているが銘文に建長五年五月吉祥日之納相州鎌倉建長寺宝什北条時頼寄附京岩上住森島播磨大椽義只作とあり神戸に存する金石文としてよほど興味のあるもので、摂河泉金石史の著者はなお研究の余地あることを述べているが古色掬すべきものと語られている

[写真(祥福寺)あり 省略]

【12】1802年 釋正順の名を記した木箱

六角形の箱の内側に
「享和二年
九月四日 ?????
?????????
??  真行寺正順」とあり、

また、もう一枚には、
「 真行寺釋正順 」
と記されています。

一枚目の板の文字を塗りつぶしてあるのは、「釋」の文字が抜けたために、書き直したようです。

ここから、読み取れることは、1802年(享和二年)に、釋正順という方が真行寺にいたということなのでしょう。
台座は、本堂の阿弥陀如来の台座と全く同じ形をしており、その小さいサイズとなっております。
もしかしたら、お内仏用のご本尊の台座ではなかったかと推測しております。

【13】1823(文政6)年 手洗い石寄贈

文政六癸年未十一月日
上砥堀村又四郎

と記されている。文政六年とは、1823年のこと。

【14】1844(天保15)年 打敷寄贈 嫁入記念として

天保十五甲辰年四月八日
姫路福中町莫賀屋二里三良
当寺江坊守入家二付
御本尊様江 御土産被献●

播州神東郡上砥堀邑
眞行寺什物也

と記されています。
1844年に、姫路福中町の莫賀屋から、当寺へ坊守として嫁入りの時、ご本尊へのお土産として、打敷をいただいたことが記されています。

【15】1844(天保15)年 池坊 許可状

生華
はせお   水仙
(文字見えず。一行ありますね…)
椿一輪   牡丹

右華道執公
傳○之事可○
受用者也

天保十五年
辰八月
池坊
専明  (花押)

播州
真行寺
御房

【16】1845(弘化2)年 許可状 正楽寺得雄

一枚目
端書無之
今度依願紗綾直綴
拝領之振を以着用
被成
御免候間難有可被
存候也
下間少進法印
弘化ニ乙巳年
十二月朔日(花押)

石見国鹿足郡
津和野
正楽寺得雄殿

二枚目

依願
一代浅黄色緞子法服
一代同色純○地合○○○
一代同色素絹
一代同色紋紗直綴
一代藤紫平絹差貫

右之通着用被成
御免候間難有可候存候也

弘化二乙巳年
十二月朔日 下間少進法印 (印)
石見国鹿足郡
津和野
正楽寺得雄殿

【17】1846年 真行寺第十世 釋明照 を記した板


「播州神東郡上砥堀村真行寺第拾世
現住釋
明照代求之
于時弘化三記丙牛暦
六月廿六日
京都??高倉?
石田関三郎
??」

播州神東郡上砥堀村というのは、今では、姫路市砥堀という地名で呼ばれており、正しく当地であります。そして、真行寺の第十世の現在住職をしている釋明照という方が、此を代わりに求めた、ということを京都の、高倉の石田関三郎という方が、弘化三年(1846年)に、この箱に記して、何かを届けています。
何が入っていたのかはわかりませんが、この村の御門徒の方が、たとえば、「御文」でも求められて、それがこの箱に入れられて当寺まで届けられたということなのでしょう。
ここから読み取れることは、1846年に、真行寺の住職は十世であり、釋明照という方であったということです。
このお寺は、無住だったとか、空き寺であったとか言われており、自分が何代目の住職であるかもわかりませんでしたが、この第十世という言葉により、これを基準に、前後の時代の住職名をつないでいくと、少なくとも、現在で十五世であることがわかってきました。何気ない板きれですが、当院にとっては、とても大切な資料であります。

【18】1848年(嘉永元年)平馨寄贈 

平馨(ひらきん)
1848年(嘉永元年)8月に砥堀村の太吉さんにより当院へ寄贈されました。


播州上砥堀村眞行寺 施主 同村太吉

 

 

【19】1853(嘉永6)年 文書 未読

【20】1875年 齊明寺廓然 住職 名を記した木片


「明治八亥年十二月
十五日 中西荘二郎昨之

真行寺現住
齊明寺廓然
皆之
九枚之内         」

とある。
ここから読み取れることは、1875年(明治8年)に、真行寺住職は、齊明寺廓然という人であり、中西荘二郎という方が、この板(経本を収納する木箱?を九つ作って下さったということでしょう。

 

【21】1925年 住職 武田龍弥 旧本堂増築、改築を記した板4枚


これらの板片は、真行寺旧本堂を解体したおり、本堂のあたりで発見されました。


「真行寺
本堂屋根板替増築
機嫌弐千五百八捨五年
当寺住 武田龍弥 当年六十三才
大正捨四年四月吉日」
とある。
1925年(大正14年)の4月4日に、本堂の屋根の葺き替えと、増築工事が完成したのでしょう。
その時の住職が、武田龍弥(淳一の父、淳信の祖父、典久の曾祖父)であり、六十三才の時であったと。


「兵庫県神崎郡
砥堀上砥堀
村長 金澤?次
惣世話主任  」
この村の村長さんが、金澤?次という方であったと。


「大工        当年歳
棟梁 田中熊次  五十七才
?? 中西庄次郎 六十二才
?? 永濱由左郎 五十三才」
工事に携わって下さった大工さん達。今も、田中、中西、永濱姓は、当村にあります。


「大正捨四年五歳
六月廿一日書
当時玄米、壹石月、金四捨貳?や
白米     金四捨八?や
大工手間、一日  金貳?八捨?や」

大正14年の物価と、それと比較した大工の日当が記してあります。

 

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