今月の法語(2021年6月)より
「泥に生き、泥に染まらぬ 蓮の華」
仏教と蓮のつながりは色々あります。
まず、ほとけさまは、必ず、蓮華の上にたっておられます。浄土教においては、阿弥陀如来。
そして、脇士(阿弥陀三尊像の時に両脇におられる)の観音菩薩、勢至菩薩も蓮華の上に立っておられます。
真宗のご本尊の絵像の阿弥陀如来も蓮の上に描かれ、南無阿弥陀仏という文字で書かれたお名号も必ず蓮台の上に書かれます。
蓮は泥中華ともいわれ、一生泥の中に暮らします。泥の中に暮らしながら、なんともいえぬ清浄な華を咲かせます。
これを五濁悪時悪世界の娑婆世界に生まれ暮らしながら、仏の教えを聞き、清浄に暮らす人の姿としてたとえたということなのでしょう。
お釈迦様のお生まれになったネパールでは、蓮といっても、おそらく睡蓮であり、それは、大きな人が乗れるくらいの巨大睡蓮だったのだろうと思われます。
さて、私たちの暮らしに置き換えてみたらどうでしょうか。娑婆に生まれ、生涯娑婆で生きるということですが、娑婆は「サーハー」という音で、意味は「忍土」と翻訳されるのだそうです。耐え忍ぶ世界ということなのでしょう。生きるということは、耐えること。そうお釈迦様は見ておられました。
私たちの場合はどうでしょうか。色んなことに耐えすぎると、悪いことも見過ごして、平気になってたりしてませんでしょうか。また、色んなことに耐えられず、あれが悪い、これが悪いと批判ばかりしていて、どこにも居場所がなくなってしまってないでしょうか。両極端に偏らず、そのはざまにおいて、悪いことやおかしな事は正されなければならないでしょうけれども、今すぐは中々難しく、そうかといってあきらめてしまってもいけない。おかしなことはおかしなこととして、悪いことは悪いことして、正されなければならないことは、正されなければならないと、きちっと見つめながら、あきらめないで、迷わず、今ある私の立場における責任をまっとうしていくことがそれぞれにとって大切なのでないでしょうか。
※余談ですが、当院では6年前より蓮を栽培しております。蓮の魅力に取り憑かれてしまい、現在180種ほど栽培しております。6月半ばごろから、ボツボツと咲き始めます。見頃は、7~8月ぐらいでないかと思います。ご縁のある方、いつでもどうぞ。狭い境内ですがご自由にごらんなれます。合掌。