播磨路や
糸の細道わけゆけば
砥堀に見ゆる
有明の月
在原業平
これは定観十七年(八七五年九月に増位山随願寺の山王祭礼の時に勅使として在原業平(ありからのなりひら)が随願寺にやってきた時に詠んだ和歌ですが、つまり、「在原業平が、朝に随願寺から砥堀の方角を見たら、山の上に残り月が見えた」ということなのでしょう。それにちなんで、後にこの山は「有明山」と呼ばれるようになりました。
JR砥堀駅より西へ約二百m行くと、旧道に道標が建っています。そこから春川神社傍の山道を登っていくと増位山に通じる道があります。その道を約ニキロほどで到着します。
具体的に地図で確認してみますと、真行寺から、村の大歳神社を見ると、その直線上に有明山城跡があります。
実際、お寺からは見えませんが、この中央の大きな○で囲ったあたりが有明山なのでしょう。位置関係から見ると、当院のある上空あたりに月があったのかも知れません。
実は、当院の「山号」がついた年代七由来も全くわかりません。当院から有明山王では約四キロ離れていて、もしかしたら元々その付近に寺があったのか、近隣にある名の知れた山だからそれを山号にしたのか、それはわかりません。
ところで、本堂の縁に掲げられたこの山号額は、昭和の大法要の時に、故金川芳一氏に御寄贈いただいたもので、文字は東本願寺に依頼をして、書いていただいたものを元に、お仏壇の浜屋さんに製作していただきました。
それではそもそも、山号とは何でしょうか?
元来、仏教発祥の国インドでは山号はなかったようで、どうやら、中国で始まったしきたりのようです。
おそらく「仏教=修行・学問」というイメージであり、そのため戦乱を避けられるように山奥に寺院が建立されたので、具体的な山の名前がつけられるようになったのでしょう。それが日本に伝わり、日本では、「比叡山延暦寺」だとか、「高野山金剛峯寺」といった、本当にある山をさしていたのだろうと思います。
さて、真宗の寺院においてにはどうでしょうか。そもそも、真宗寺院の多くは、海岸線や川沿いといった海上交通網に沿って発展してきた地域に多くあり、山というよりも平地に多くのお寺があります。また、教えの上からしても、山での修行のようなことがなく、平地で門徒と共にお念仏を称え暮らすというライフスタイルから、実在する山ではない文字を山号にしているお寺が多くあります。
地元の七組の寺院では、どうでしょうか。たとえば、福崎町福田の本覚寺は「佛教山」であり、市川町田中の光明寺ではおそらく姓からとったと思われる「玉光山」。そして、加西市の西岸寺では「酒相山」、船津町仁色の西勝寺は、陰山という地名からとったと思われる、「照陰山」とい
ったように、実在する山ではない名前が多く使われているように思えます。これもある意味では真宗文化の特徴のひとつなのかも知れません。
吉田實氏の書かれた『 ふるさと とほり 有明 』
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