真行寺旧建物の写真です
当院の昔をご存知の方は、懐かしく思われる方もおられると思います。
今から35年くらい前の姿でしょうか。
私が小学生のころ見た風景です。
もっと昔はお寺の前は畑となってまして、祖父の時代に前の土地を購入して、建替えまでの間、姫路市に公園として提供していた時代の写真です。右手前に砂場があり、もう少し右には滑り台もありました。もっと手前の右には鉄棒もあり、近所の子供達と、ここで遊んで大きくなりました。とても小さなお寺で、壁も白壁が崩れ落ちて土がむき出しの状態で、家の中も雨漏りが激しく,雨が降ると、部屋の至る所にバケツを並べて暮らしていた記憶があります。
これは本堂の北側からみた景色。手前の砂利が詰んであるところは、昔はため池がありまして、川の水がなくなっても、ここに魚が多くいて、食用蛙も住んでいました。この池を埋めて、防火水槽を作るとき、池から1mを超える巨大なうなぎが3匹もでてきたのを覚えています。後日、そのウナギの行方を尋ねたら、自治会の人たちがみんなで食べてしまったそうです。
(私なら、池の主をたべたら、たたりがこわくて・・・、古い映画の見過ぎかも(^_^))
これは、南西側からみた景色。山門の左手にほこらがあります。ここにお地蔵さんが祀ってありました。お地蔵さんは、今は、上砥堀公民館の前の地蔵堂に一緒に祀っていただいております。
子どものころ、かくれんぼをして、この地蔵堂の中にひっそり隠れていました。それが、何だったか、子どもだったので、考えたこともありませんでしたが、今から思えば、不思議な空間でした。西国巡礼の方の雨よけか、臨時宿泊施設だったのかもしれません。
これは、門です、とても小さな門でした。外で遅くまで遊び、叱られて玄関を閉められたり、家族が留守の時に学校から帰ってきたら、この門の上からコッソリと入っていました。今の門では大きすぎて無理ですが・・・ちらっと、門の外の風景が見えますが、実は、前の木から先は隣の村まで延々と田畑が広がっていました。今は、生野橋からまっすぐその田んぼを抜ける道ができ、開発にかかり、お店や家で、逆に農地がほとんどなくなってしまいました。建物が何もなかったので、台風がくると、ものすごい風がきて、怖かったのを覚えています。
これは、本堂の北側といいますか、裏側といいますか。ちなみに、この田んぼの北側におられる方は、「前のお寺」とよび、私は「裏のおうち」と呼んでしまいます。また、お寺の東のおうちのことを「ひがしら」と祖父母がよんでいましたが、そのおうちの方は、うちのことを「にしら」とよんでおられるのに、驚きました。
何もわからないこどもだった私は、「ひがしら」さんという方だとばかり思っていました。(笑)
いなかで、よくありそうな、たわいのないはなしです。
これは、本堂のお内陣のから左の余間にかけての写真ですね。ちらっと欄間が写っていますが、2017年の大法要のおり、御門徒の一人の方が御寄贈下さった懇志により、修復することができました。約三十年ほどの間、倉庫で梱包されて眠っていましたが、今ではお内陣の中で綺麗に復活しております。ありがたいことです。
これは、本堂の正面です。正面の欄間は、工事の時におそらく処分してしまったのでしょう。阿弥陀如来の立っておられる蓮台の下の木箱の内側に、当村の庄右衛門さんによって、1721年(享保6年)に寄進されたことが記されており、この頃にこの本堂が建てられたと推測しております。
このころは、本堂の照明は、裸電球だったんです。今からは想像もつきません。
これは、右側の余間です。ここも裸電球ですね。余間といっても、畳が3畳ぶんしかない、本当に狭い本堂だったのですね。
これは、玄関です。塀は壊れていたので、ブロックを積み上げて、塀の代わりにしていました。
玄関まわりは、父の代に応急処置で、補修していました。この頃、水も手で汲み上げる井戸から、ポンプ式にかわり、また、お風呂も五右衛門風呂から灯油式にかわりました。画期的なことでした。私も子どもの頃、五右衛門風呂を薪で焚くのが仕事となってました。なつかしい。
ちなみに、中学に入った頃に、玄関の横に1,5畳の部屋を作ってくれて、それが初めてもった自分の勉強部屋でした。
これは、私が高校三年を終え、浪人生のころ。浪人の決まった春に、一生懸命家中のものを引っ越すのに、どろどろになってくたくたになって、片付けた記憶があります。工事は村の戸田建設さんに助けていただきました。庫裏を壊しているところの写真ですね。おしゃれな古風の窓枠は、今も倉庫に保管してあります。また、いつか、日の目を見る日が来ますように。